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↑ 松野氏のこの写真は恐らく九州熊本の高遊原分屯地でのものと思われるが、LR-1とKV-104の間に2機のUH-1が展示されている、奥の方はH型のようであるが、写真では詳細が判らない。西部方面ヘリコプター隊UH-1B/41556
陸自初の汎用ヘリだったシコルスキー社製のH-19Cの後継機として、1962年(昭和37年)9月から富士重工でライセンス生産が開始され、1972年(昭和47年)までの10年間で90機が作られたが、この10年間は米軍がベトナム戦に掛かりっきりになっていた時代である。Page-1で「地獄の黙示録」に触れたが、米陸軍第1騎兵師団が、430機以上の多量のヘリコプターを配備して空中機動師団に改編され、第101空挺師団と共に1ベトナム戦に投入されたのは1965年である。この時の師団のヘリはOH-6とUH-1Bが中心で大型のCH-47もあったはずだ。師団の空中火力は武装したUH-1Bが受持ち、指揮官もUH-1を使って指揮を取っていた。OH-6による索敵とUH-1ヘリを機動的に使った人員輸送で第1騎兵師団はクレージーホース作戦など対ベトコン戦で大いに注目を浴びている。また、ベトコンの支配地域では人員輸送も大型のCH-47では敵の的になりやすく、武装UH-1Bに護衛された中型のUH-1Bが多用されていた(AH-1Gは1967年以降に登場)。UH-1Bには武装した兵員8名が通常乗れたようであるが、山岳地帯など高地での作戦では空気が薄く、B型の出力では2名~3名しか乗れなかったと記録されている。

こうしたヘリを使ったベトナム戦での機動的作戦は対空射撃による被害も多かったが、全般的に機動力に欠けていた当時の陸上自衛隊にあって陸自航空隊に対する作戦の方向性に大きな影響を与え、陸自航空自身も大いに刺激を受けていたはずである。但し、この時代は、まだまだ太平洋戦争後の心理的後遺症から自衛隊に対する視線も冷たく、災害派遣や急患輸送、森林火災等の目的で使われるイメージを前面に出していた関係もあり、陸自のヘリは塗装もオレンジ蛍光色を機体にまとったとても実戦的ではないマーキングであった。それは仕方ない事であったが、時代の流れと共に自衛隊に対する国民の理解も進み、国防の為に「戦える自衛隊」としてUH-1/OH-6も戦場迷彩を採用されるようになってきたのは1980年代中盤以降である。
中部方面ヘリコプター隊のUH-1B/41518
↑ 中部方面ヘリコプター隊のUH-1B/41542 ホイスト付。ホイストはUH-1Bの約30%に装備されてた。
中部方面ヘリコプター隊のUH-1B/41566 ホイスト付。ホイストは”MH”表記の上に見える器具で、奥の丸いケースがロープの収容部。
中部方面航空隊のUH-1B/41576
↑ 何とUH-1Bの生産2号機である。八尾には1970年代後半まで、このような初期生産のB型が存在していたのである。
↑ ここからは松野氏撮影のUH-1Bをページエンドまで展示させていただく。恐らく1970年代後半に中部方面航空隊の八尾駐屯地にて撮影されたと思われるUH-1B/41508。性能を示す掲示板には、全幅2.9m/全長17.4m/全高5.2m/発動機T53-K-138/出力1400HP/燃料容量798ℓ/速度222km/時/上昇限度22700ft/乗員2+11=13名 等と書かれているがH型の仕様説明板で、B型は出力は960HP程度である。
↑ 1979年の小松基地航空祭に展示された中部方面ヘリコプター隊のUH-1B/41576
1978年11月の入間航空祭に展示されたUH-1B/41588。航空ショーが終盤を迎え、立川へ帰投するときの模様で、ほぼ同形の米軍UH-1Pとの対比が面白い。またバックに写っている航空自衛隊のC-1もアルミ地のままで黄色い鷹のマークを付けていた時代だ。UH-1B/41588
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